近年にない大雪が降った新潟で、私はのんびりと冬を過ごした。
雪に包まれた町は寒さと静けさに満ち、逆に室内の暖かさを際立たせる。
快適に冬を過ごす──。
これもまた、雪国の生き方だった。
根雪が融け、春の訪れを感じ始めた頃、おばあさんが新潟を離れることになった。
前から話を聞いてたとはいえ、やはり寂しさは拭えない。
そして同時に、私はまた一つの選択を強いられたのだ。
これをきっかけに、新たな地域で日本語の研究をするのか。
まだここに残り、さらに新潟の言葉を研究するのか。
それとも、未来へ戻るのか──。
新潟駅までおばあさんを見送った帰り、私は柳人さんと並んでベンチに腰掛けていた。
傍らに置いたバッグには、申し訳程度の手荷物が詰められている。
そのほとんどは、私がここで過ごす間に増えたものだった。
「おまえもこのまま行くかと思ったけど──」
「まだちょっト、どうしようかと考え中なんでス」
「そうか」
そっけない頷きを返し、柳人さんは私から視線を外した。
出会ってから、そして再会してから、ずいぶん親交を深めたと思ったけど……。
柳人さんの横顔はいつになく硬く、雰囲気も強張っている気がした。
本心から言えば、まだここにいたかった。
もう少し──もっと、柳人さんの傍にいたかった。
「おい、ちょっと付き合え」
いきなり柳人さんが立ち上がり、私に手を差し伸べた。
私は思考するより前にその手を取り、次いで荷物をもう片方の手に取った。
──と、柳人さんが荷物を持ち、私が何か言う前に歩き出す。
そして私もば引っ張られるようにして、歩き出したのだった。
新潟駅から歩いて十分ほど。
大通から少し離れた区画の路地を入ったところで、柳人さんは立ち止まった。
目の前にあるのは、こじんまりした二階建ての一軒屋。
周囲に古い家屋が目立つ中、この家は真新しい印象で、壁からは塗料のにおいがしていた。
「ほら、入れ」
玄関の鍵を開けた柳人さんが私を促し、中へと入る。
「お、お邪魔しまス?」
「疑問系はいらん」
そう言って、ようやく柳人さんは笑顔を見せた。
玄関を上がってすぐにあったのは、ささやかなダイニングキッチン。
その奥にあるドアのない入り口を通ると、八畳ほどの部屋に出た。
ピカピカのフローリングの上には家具も何もないため、がらんとした印象を受ける。
屋外よりましとはいえ、足元から底冷えする寒さが伝わってきた。
カーテンを吊っていない大きな窓からは、春の色を感じさせる陽射しが入ってくる。
柳人さんは私の荷物をフローリングに置くと、少し照れた様子で頭をかいた。
「今度からここを仕事場兼住居にすんだわ」
「アトリエってやつですネ」
「そこまで大層なもんでもねぇけどな。ま、そんな感じだ」
聞けば、ここは元々おばあさんが営んでいた小料理屋だったそうだ。
そしておばあさんが孫のために、リフォームしてくれたのだという。
「愛されテますネー」
「俺だってなけなしの貯金はたいたわんね!」
「でも、いつかラ手がけてたんですカ?」
「秋におまえが来て、一度戻った直後くらいらんな」
「今の今までヒミツにするなんテ、水臭いでス」
「俺だって思うところは色々あんて。……それより、な」
一度言葉を切り、柳人さんはまたさっきのような緊張した面持ちとなった。
その緊張が私にも伝わったのか、妙に身構えてしまう。
沈黙は数秒だった気もするし、数分が経った気もする。
「上に、二部屋あるんだけど、さ」
一瞬合った視線。
直後、柳人さんは柔らかな笑顔を浮かべてこう言った。
「まだ新潟にいるんなら、ここで暮らすか?」
季節は、穏やかに巡る。
柳の枝に緑が見え始める頃、信濃川を柔らかな桜色が縁取っていた。
川沿いに植わる桜の樹の下には、赤や黄色の色鮮やかなチューリップが咲き誇る。
先を歩く柳人さんが、振り返りもせず手のひらだけを私に向けた。
ここで軽口を叩くと瞬く間に引っ込むから、少し足を速め、手を重ねる。
「あんまりとろとろ歩いてっとすっ転ぶぞ」
「ここデ転んだら川まで一直線ですネ」
「その前に犬にたかられるんじゃないか?」
柳人さんが笑いながら指差すのは、散歩に連れられた犬たちだ。
日増しに色鮮やかになる芝生の上を、転がるように駆け回っている。
「それはなかなか怖そうナ経験になりそうでス」
「仮定を重ねてどーすんて」
「あっ、ソウか。転ばなければいいんですよネ」
「そういうことだ。ほら、行くぞ」
引っ張られるように並んで歩き、やがて着いた場所は桜の名所だった。
萬代橋、八千代橋、昭和大橋と順に越えたところに、緑地帯が広がっている。
白山公園だ。
やすらぎ提(土手)から周辺の公共施設は連絡橋で繋がり、車に煩わされることなく散策できる。
川から少し離れたとき、一帯に広がる桜色が視界に飛び込んできた。
「オー、桃源郷みたいでス」
「桜だけどな」
「揚げ足取りはいりませんヨ」
桜、桜、桜。
川沿いの並木道とは一味違う、まさに桜の園。
小高い斜面に植わる桜という桜が、視界を淡いピンクに染め上げる。
本来ならほんのり香る程度の桜の匂いは、芳香となって辺りに満ちていた。
花見客はたくさんいたけれど、それでもまだ桜のほうがはるかに多い。
そんな人のいない一角に、柳人さんは腰を下ろした。
つられて、私も腰を下ろす。
やがて傍らで、柳人さんはスケッチを始めた。
最近では、描いている最中の絵を私が見ても、怒ったりはしない。
話しかけると「うるさい」とか「黙れ」とか「しゃーつけんぞ」とは言うけど、
こうして隣でおとなしくしている分には、何も言わなかった。
少し離れた場所から聞こえてくる、花見客の楽しそうな声。
風に揺れる桜の枝は、花びらの音のようにも思えて……。
ここだけ切り取ったような時間が、ゆったりと流れていった。
特別、何かを伝え合ったわけじゃなかった。
だけどいつの間にか、二人で過ごす時間は、掛け替えのないものとなっていた。
雨に包まれる梅雨の日々。
一緒に散歩にいく機会は減ってしまったけれど、アトリエで過ごす時間が増えた。
ちょうどこの頃、柳人さんが新しい仕事を請けたことも影響しているだろう。
なかなか大きな企画の仕事らしく、大変だと口にしながら、柳人さんは楽しそうだった。
「この辺りの絵ですよネ」
「まぁな。まずは流作場から攻めてこうと思ってな」
「攻める……」
「言葉どおりに受け取んなて。とっ掛かるって意味らわいや」
「新潟弁じゃありませんヨ」
「スラング使って何がわーりんて」
「そうやってまだ少し日本語に不自由な私を翻弄するつもりなのですネ!」
「たたき出すぞ」
「ゴメンなさい」
素直でよろしい、と偉そうな口調で言うと、柳人さんは笑顔で私の頭をくしゃりと撫でた。
そして梅雨は明け、本格的な夏が訪れる。
仕事中は集中するためエアコンをつける柳人さんだけど、
それ以外のときは体に悪いからと窓を開け放していた。
小さな裏庭に面したアトリエの窓は大きく、普段なら心地よい風が吹き抜ける。
だけど今は──。
「確かに夏は高温多湿って言ってましたけど、この暑さは異常です」
すっかり達者になった日本語で私が文句を言うと、速攻でデコピンがきた。
その発射速度たるや、こちらが身構える隙もない。
「痛い……」
おでこをさすると、柳人さんは素知らぬ顔で団扇を大きく仰がせた。
団扇が起こした風は私のところまで届き、つかの間の清涼をもたらす。
さりげなく気遣っている辺りが柳人さんらしいといえばらしい。
だけどその柳人さんも、今は弛緩した風情で座り込んでいた。
フローリングに簾と風鈴という和洋折衷アトリエに、じっとりとした空気が満ちている。
かくいう私も、いっそのこと床に寝転びたい気分。
だけど前にそれをやったら、容赦なく踏まれた。
「でも本当に暑いです……。新潟弁で言うとあっちぇえです」
「本州に台風来てんだっけ仕方ねぇろ。フェーン現象ってやつだ」
「フェーン現象……空っ風……」
「それは山越えた東、ついでに冬の現象だ」
弛緩しているのは姿勢だけで、相変わらずツッコミは迅速だ。
時折、思い出したように風鈴が小さく鳴り、涼やかな音を響かせる。
一ヶ月ほど前に、縁日で買った風鈴だった。
最初に新潟へ来たときに教えてもらった、夏祭り。
せっかくだからと柳人さんに浴衣を着せてもらって、一緒に行ったのだ。
一キロも連なる屋台の数もすごかったけど、その間を埋めるような人の数にも参った。
神社へのお参りなんて、ちょっとずつしか列が進まないんだもの。
それもそのはず、年に一度の御宣託の日だったのだ。
夜もそれなりに遅い時間だったのに、老若男女問わず人が集まっていた。
その熱気とお祭りの雰囲気に当てられて、しばらくぼうっとしてしまったほど。
少し残念だったのは、あの言霊のケヤキが屋台の影で見られなかったことだ。
また鳴らなくなった風鈴を見ながらそんなことを考えていると、
アトリエから柳人さんの姿がなくなっていることに気がついた。
庭にでも出たのかな、と簾の隙を覗くように身を屈める──。
「ひゃっ!?」
いきなり、冷たい物体が首筋に襲い掛かった。
肩を竦めて振り返ると、意地の悪い笑みを浮かべた柳人さんがそこにいる。
「氷食え氷、ほら」
柳人さんが差し出したのは、この夏ですっかり馴染みとなったかき氷バーだった。
新潟ではお馴染みの(と柳人さんは説明していた)ピンク色をした氷のアイス。
見た目はちょっと毒々しいけど、暑いときはちょうどよく思えるから不思議だ。
袋から出し、早速かぶりつく。
「ほら、垂れてんぞ」
柳人さんの右手が伸び、口元から顎に伝ってしまったピンク色の雫を拭う。
そのまま柳人さんは指を舐め、何食わぬ顔で自分のアイスを再び食べ始めた。
「なんか、やらしーですよね」
「床に零れちゃ面倒だろうが」
「舐める必要ないし」
「直接吸いとりゃよかったんか?」
今度は顔の熱さでアイスがとけたような気がした。
この日々がいつまで続くかはわからないけれど、今はまだ、ここにいたいと思った。
この日常を大切にしたいと、強く願った。
「逆転ホームランで永住許可が下りるかもしれませんしね……」
「ん? なんか言ったか?」
「はい。もっと柳人さんと、一緒にいたいなって」
「っ──」
顔を赤らめた柳人さんが私に手を伸ばした、次の瞬間。
唇が触れ合った。